南伊予も例外ではなく、その脅威を見てとれる。バケツをひっくり返したような雨の降り方、平均気温の上昇、草木の開花時期・開花期間の変化、南方系の鳥類・昆虫類の目撃など、あらゆる所でゆるやかではあるが確実に進行しているのである。
飽くなき人類の欲望は、高度な科学技術よって私たちに文化的生活と経済的豊かさ(物質)をもたらしたが、その引き換えに豊かな自然環境と心(精神)の豊かさを失わせる結果となった。
現代の子どもたちは、豊かな自然環境と素朴な共同体に支えられて成長していったかつての子どもたちとは異なり、極めて人工的な環境で生活することを余儀なくされているのだ。真夜中まで眠らない子ども、長時間TVゲームにはまってしまう子ども、ファーストフードで育つ子ども、TVの残虐シーンに魅せられる子ども、受験地獄、育児放棄、人間らしい触れ合いの希薄な子どもなど、現代の子どもの諸問題の多くは、人工的な成育環境が少なからず影響しているように思う。そのような子どもたちが大人に成った時、その時代はどうなっているのだろうか。自然環境は失われ、人間らしい触れ合いのない極めて人工的な環境の中で無味乾燥な生活を送っているのだろうか。そのような子どもたちの体の成長や心の発達を支えていくためには、従来の子育てや教育の考え方による対応だけでは難しく、特に子どもに生命の仕組みや生態系について考える生物学的な視点は必要不可欠なものと言えるだろう。
最近、「生物多様性(biodiversity)」という言葉が盛んに使われるようになった。生物多様性とは何か。このままでは人類の生存すら危うくなるのではないか、といった漠然とした不安、危機感から生まれた新しい言葉なのだ。 生物多様性は、遺伝子の多様性、種の多様性、生態系の多様性という3つのレベルで考えるのが一般的である。これに景観の多様性を加える人もいる。自然保護あるいは環境、生態系を論ずる場合、今や「生物多様性」の意味を理解せずには語れない時代になった。
環境省では、生物多様性センターを設置し、ホームページなどで生物多様性の保全を訴えている。が、しかし、大量生産・大量消費という生活様式(経済的・物質的豊かさ)に侵食された人々は、社会秩序や道義的責任を無視し、大量の産業廃棄物と粗大ゴミを投棄し、「自然にやさしいエネルギー」と言う大義名分の元、渡り鳥の飛行コースに風力発電施設を設置し、「自然保護だ」と言って、他地域の生物個体(メダカやホタルなど)を野外に放ち、「地球環境の保護- CO2の削減」などと言って、その地域の森林生体系を無視した植林をするなど、安易に行われる動植物の移植、移入、このような人間の愚かな行為でますます自然環境は破壊され、生物の多様性も失われていくのだ。そして、行き過ぎた自然環境保護運動により伝統文化までも消滅するのである。
環境省 自然環境局 生物多様性センター http://www.biodic.go.jp/
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